2011年02月07日

豐臣秀吉(とよとみひでよし)

豊臣秀吉(1) (山岡荘八歴史文庫) [文庫] / 山岡 荘八 (著); 講談社 (刊)  豊臣秀吉 (中公新書 (784)) [新書] / 小和田 哲男 (著); 中央公論社 (刊)  豊臣秀吉の経営塾 [単行本] / 北見 昌朗 (著); 幻冬舎 (刊)


豐臣秀吉(とよとみひでよし) / 羽柴秀吉(はしば ひでよし)

安土桃山時代、織田信長(おだのぶなが)のあとをついで天下を統一した武将。

生誕 天文6年2月6日(1537年3月17日)
死没 慶長3年8月18日(1598年9月18日)


1537年
(天文6)
1歳 尾張の農民である弥右衛門(やえもん)の息子として生まれる
1554年
(天文23)
18歳 織田信長に仕官
1561年
(永禄4)
25歳 織田信長の家臣であった杉原定利(さだとし)の娘と結婚
1565年
(永禄8)
29歳 木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)と名乗る
1573年
(天正元)
37歳 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗る
1574年
(天正2)
38歳 長浜城城主となる
1577年
(天正5)
41歳 中国攻めに織田信長方として出陣
1580年
(天正8)
44歳 姫路城に本拠を移動
1582年
(天正10)
46歳 山崎の戦いにおいて明智光秀軍に勝利
1583年
(天正11)
47歳 賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)において柴田勝家軍に勝利
1583年
(天正11)
47歳 大坂城を築城し本拠を移動
1584年
(天正12)
48歳 小牧・長久手の戦いにおいて徳川家康と和睦
1586年
(天正14)
50歳 太政大臣(だいじょうだいじん)となり豊臣秀吉を名乗る
1587年
(天正15)
51歳 九州攻めにおいて島津義久軍に勝利し九州地方を平定
1590年
(天正18)
54歳 小田原攻めにおいて北條家を殲滅し関東地方を平定
1590年
(天正18)
54歳 奥州(おうしゅう)攻めにおいて葛西晴信軍らに勝利し東北地方を平定
1592年
(文禄元)
56歳 文禄の役で朝鮮出兵を命令
1597年
(慶長2)
61歳 慶長の役で朝鮮出兵を命令
1598年
(慶長3)
62歳 伏見城で病死


1537(天文6)年、尾張国中村(愛知県名古屋市)の農民である弥右衛門(やえもん)の息子として生まれる。
父・弥右衛門は、農民であったために性はなく、出世するたびに、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)、羽柴秀吉(はしばひでよし)と名を変え、50歳で太政大臣(だいじょうだいじん)就任を機に、朝廷から認められた形で豊臣性を獲得。

母・なかが、日吉神社(愛知県清須市)に祈願した後、胎内に太陽が宿る夢を見て懐妊したのが秀吉。『太陽の子』を意味する『日吉丸』と名付けられた。日吉神社では猿を神の使いとしているため『さる』という幼名だったともいわれている。

父の死去とともに、8歳で寺に預けられた秀吉は、寺の堅苦しい生活になじめず、僧を見下してわがまま放題に振る舞い、すぐに実家に追い返されてしまう。その後、秀吉は母に『東国に行って一旗揚げる』と宣言し家を飛び出した。放浪生活を続けて職を転々とした末に、今川家家臣であった松下之綱(まつしたゆきつな)に仕官。甲冑の買い入れを命じられ尾張に向かった秀吉は、購入資金を着服。身なりを整え、織田信長に仕官を直訴。機転の利く雑用係として頭角を現し、出世の糸口をつかむ。

信長に仕官してから7年ほどたった1561(永禄4)年、織田信長の家臣であった杉原定利(さだとし)の娘・おね結婚。秀吉が貧しい農民の生まれだったため、おねの家族からは反対されたが、それを押し切っての恋愛結婚だったといわれる。

信長の美濃平定や姉川の戦いで功績を挙げ、38歳にして近江国北部の統治を任されるとともに、長浜城(滋賀県長浜市)城主となった。

1582(天正10)年、京の本能寺で信長が明智光秀に自刃に追い込まれると、中国攻めで出陣していた備中国高松(岡山県岡山市)から、『中国大返し』と呼ばれる京への帰還を果たし、明智光秀を討伐。

翌年には、後継者の座をめぐって対立した柴田勝家を撃ち破り、天下人へ足掛かりをつかんだのであった。

以降、徳川家康との和睦、豊臣性の獲得を経て、1590(天正18)年に天下統一を実現。検地や刀狩(かたながり)といった政策を推し進めるとともに、中国大陸進出の足掛かりとして朝鮮出兵を果たすものの、その結果を最後まで見届けることなく、伏見城(京都府京都市)で病死。太閤秀吉として、62年の生涯を終えたのだった。

織田信長の家臣であった杉原定利(さだとし)の娘・おね結婚。おねとは間には子ができず、側室との間に生まれた秀勝、鶴松も早世したため、甥の秀次を養子に迎える。しかし、淀殿との間に秀頼が誕生すると、邪魔になった秀次を切腹に追い込み、秀頼を跡継ぎにしたのだった。秀吉の死後は、家督を相続した秀頼が豊臣家当主として徳川家康と対立。大坂の陣において母の淀殿とともに自刃したことにより、豊臣家はわずか2代で消滅することになった。

posted by 夢子 at 14:55| 豐臣秀吉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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