2011年01月17日

徳川家康(とくがわいえやす)

徳川家康(1) (山岡荘八歴史文庫) [文庫] / 山岡 荘八 (著); 講談社 (刊) 定本 徳川家康 [単行本] / 本多 隆成 (著); 吉川弘文館 (刊) 影武者徳川家康〈上〉 (新潮文庫) [文庫] / 隆 慶一郎 (著); 新潮社 (刊)

徳川家康(とくがわいえやす)


生誕 天文11年12月26日
死没 元和2年4月17日

1542(天文11)年 1歳 三河国西部を支配していた松平広忠の嫡男として生まれる
1547(天文16)年 6歳 継母の父である戸田康光の裏切りにより織田信秀の人質となる
1549(天文18)年 8歳 織田家と今川家の人質交換により今川義元の人質となる
1555(弘治元)年 14歳 駿府城で元服
1557(弘治3)年 16歳 今川義元の姪・築山殿(つきやまどの)と結婚
1560(永禄3)年 19歳 桶狭間の戦いに今川義元方として出陣
1560(永禄3)年 19歳 今川家から独立し岡崎城城主となる
1562(永禄5)年 21歳 尾張の織田信長と同盟締結
1572(元亀3)年 31歳 三方ヶ原の戦いにおいて武田信玄軍に敗北
1579(天正7)年 38歳 織田信長の命により妻・築山殿の殺害と嫡男・信康の自刃を指示
1584(天正12)年 43歳 小牧・長久手の戦いにおいて豊臣秀吉と和睦
1586(天正14)年 45歳 豊臣秀吉に臣従
1590(天正18)年 49歳 豊臣秀吉の命による関東地方への移封にともない江戸城に本拠を移動
1600(慶長5)年 59歳 関ヶ原の戦いにおいて石田三成率いる西軍に勝利
1603(慶長8)年 62歳 征夷大将軍となり江戸に開府
1605(慶長10)年 64歳 三男・秀忠に将軍職に委譲
1615(元和元)年 74歳 大坂・夏の陣で豊臣家を殲滅(せんめつ)
1616(元和2)年 75歳 駿府城で病死

徳川家は、1566(永禄9)年に家康が松平から改性したことに始まる。
松平家は、三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市)が発祥地といわれている。親氏(ちかうじ)を祖として、土豪として徐々に勢力を伸ばしたが、三河をほぼ平定した清康(きよやす)が家臣に暗殺されると没落し、広忠(ひろただ)の代には生き残りのため駿河の今川家と同盟。

1542(天文11)年、岡崎城(愛知県岡崎市)城主である松平広忠の嫡男として生まれた家康は、弱小勢力の松平家を守るための人質となることを余議なくされ、尾張の織田家、次いで駿河の今川家で幼少時代を過ごした。

父・松平広忠が、駿河の今川義元の事実上の配下になった際、人質として今川家に送られることになった家康は、その途上で、織田家に寝返った護送役の戸田康光の裏切りに遭い、織田信秀に身柄を渡されてしまった。こうして織田家の人質になった家康は、信秀の嫡男である信長と親しく言葉を交わすようになったいわれている。

今川義元の姪・築山殿(つきやまどの)と結婚し、嫡男をもうけるが、のちに信長の命により妻・築山殿の殺害と嫡男・信康の自刃を指示(築山殿事件)。だが、近年では築山殿と信康を処断したのは信長の意思ではなく、徳川家自身の事情によるものであるという説も浮上してきている

父・広忠の死後、今川家に岡崎城を接収され、元服後も今川方の武将という立場にあったが、桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれると、岡崎城を奪還して今川家から独立。

独立は果たしたものの、弱小勢力にすぎなかった家康は、隣国である信長に同盟を求めるに違いないという周囲の見込みとは裏腹に、織田方の土豪の城をいくつか攻めた。すると信長は『大した奴だ』とむしろ感心。自分から同盟を求めてきた。

その後に同盟した信長から家臣のように扱われたものの、着実に領土を拡大させた。本能寺の変で信長が自刃すると、その後継者となった羽柴秀吉と一時的に対立。しかし最終的には臣従し、1590(天正18)年には関東地方への本拠移転を命じられたが、江戸城城主として新領地の経営に専念した。
そして、秀吉の死後、その野望をあらわにして豊臣恩顧(おんこ)の諸大名の切り崩しに着手し、関ヶ原の戦いで石田三成を破って覇権を掌握。1603(慶長8)年に征夷大将軍となって江戸幕府を開き、2年後に将軍職を三男の秀忠に譲ってからも、駿府城(静岡県静岡市)において大御所として実験を握る続けた。大坂の陣では、老獪な手腕を見せて豊臣家を滅亡させ、戦国の世の終止符を打った翌年の1616(元和2)年、駿府城で病死。75歳。

posted by 夢子 at 10:04| 徳川家康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。