第3回 源平の御曹司 あらすじ 大河ドラマ『平清盛』
【第3回 源平の御曹司 あらすじ】
大河ドラマ『平清盛』2012年1月22日 NHK総合20:00〜
平清盛(松山ケンイチ)は "船の警護役"を自称して瀬戸内海で海族と戦い、取り返した食料を盗まれた漁民に返すという無頼の日々を送っていた。ところがある日、清盛は賊と間違われ捕えられ、京に連れ戻されてしまう。再会した父の忠盛(中井貴一)は清盛を『北面の武士』という院の警護役に就かせようとする。だが清盛はあくまで一人で面白い人生を歩むと息巻く。
そんな折、清盛を一人の若武者が呼び止める。その若武者の名は源義朝(玉木宏)。父の宿敵である為義(小日向文世)の子だった。義朝は、源氏と平氏のどちらが上か競べ馬(くらべうま)で勝負いろと清盛に挑む。
※競べ馬(くらべうま)
古くからの乗馬競技。2頭または数頭で、一定の距離を競走して勝敗を争う。奈良・平安時代には宮中儀式の一つともされた。
北面の武士(ほくめんのぶし)
11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。
平正盛(たいらのまさもり)率いる伊勢平氏は、伊勢・伊賀を拠点として成長し、永長2(1097)年、白河院の娘・媞子内親王(ていし)内親王の菩提所である六条院御堂(ろくじょういんみどう)に伊賀国鞆田村、山田村を寄進し、鞆田荘として立荘したことを契機に院権力と結びついた。正盛は院近臣の受領(ずりょう)のもとで、各国の検非違所(けびいしょ)や厩別当(うまやべっとう)などの武力にかかる役割を果たし、みずからも各国の受領を歴任するに至った。伊勢平氏は北面の武士として、院のもっとも頼りになる武力となった。
清和源氏は摂関家の従者として発展したが、源義家(みなもとよしいえ)の嫡男・義親(よしちか)が対馬守在任中に任地で人民を殺し、公物(くもつ)を押し取ったとして糾弾されるなど、中央政権とは折り合いがよくなかった。結局、義親は平正盛に追討された。
平正盛は受領としての諸国経営、荘園の寄進など、武力の行使だけでなく、院政を支える条件をパランスよくこなしたが、源氏は貴族社会にあって粗暴、逸脱とみられる行為が多く、低迷を余儀なくされた。
平忠盛(たいらのただもり)
清盛の父 永長元年(1096)〜仁平3年(1153)
白河、鳥羽両天皇に目をかけられ、伊勢平氏の人間として初めて昇殿を許された。諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事した。
源義朝(みなもとのよしとも)
頼朝の父 保安4(112)年〜平治2(1160)
平清盛と共に保元の乱に勝利したが、平治の乱では敵対。敗走後、謀殺された。
源為義(みなもとのためよし)
頼朝の祖父 永長元年(1096)〜保元元年(1156)
白河法皇・鳥羽上皇に仕える検非違使(けびいし)だったが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の為朝の乱行により解官となる。保元の乱で敗北し、長男の義朝の手で処刑される。
| 天皇家略図 |
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(71)
後
三
条
天
皇 |
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71代 後三条天皇
藤原氏を外戚としない171年ぶりの天皇 |
白河院政
1086〜1129年
北面の武士を設置し、平正盛を登用。強大な権力と財力を誇った |
鳥羽院政
1129〜1156年
平正盛の子・忠盛を登用する。崇徳天皇を忌避し、保元の乱の原因をつくった。 |
後白河院政
1158〜1192年
平氏政権転覆を企て、1179年に平清盛によって幽閉され、2年間院政を停止した。 |
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(72)
白
河
天
皇 |
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(73)
堀
河
天
皇 |
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藤
原
璋
子 |
= |
(74)
鳥
羽
天
皇 |
= |
藤
原
得
子 |
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┌ |
┤ |
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(77)
後
白
河
天
皇 |
(75)
崇
徳
天
皇 |
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(76)
近
衛
天
皇 |
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院政
『院政を敷く』という言葉は、会社や組織などで現職を引退した実力者が引退後も実権を握っている状態を指す。もともとは、天皇が譲位して『上皇(じょうこう)』となり、また上皇が出家して『法皇(ほうおう)』となって、天皇に代わり国を統治していた政治形態のことである。
院政の礎を築いたのは後三条天皇である。後三条天皇は藤原氏を外戚としなかったため、親政を開始。在位4年余りで位を退き、貞仁親王(白河天皇)に譲位した。その翌年崩御。
白河天皇は14年間在位した後に幼少の堀河天皇に譲位し、自ら上皇となって院政を開始する。白河法皇は堀河天皇が成人してからも政権を返すことなく、孫の鳥羽天皇、さらにその子の崇徳天皇と3代、43年間に渡って院政を行った。
白河法皇、大治4(1129)年7月7日崩御。77歳であった。法皇の死後は、鳥羽上皇が院政を実施し専制をふるった。
白河天皇(しらかわてんのう)
第72代天皇 天喜元年(1053)〜大治4年(1129)
子・堀河天皇、孫・鳥羽天皇、ひ孫・崇徳天皇の3代に渡り院政を敷いた。
ひ孫・崇徳天皇は実子説あり
崇徳天皇の母である待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)は、幼いころより白河院の手もとに置かれ、溺愛されて育った。永久5(1117)年、白河院の猶子として鳥羽天皇のもとに入内(じゅだい)するが、その後も白河院と『密通』しており、公然の秘密となっていたという。崇徳天皇は白河院の子だとうわさされた。ただ、この時代の後宮の女性たちは、親子・兄弟などの二代の天皇に仕えたり、複数の男性と関係をもつことは、中世を通じてめずらしいことではない。
伊勢平氏発祥伝説地
津市産品1437−1
桓武平氏系譜
桓武天皇の第三皇子である葛原親王(かずらわらしんのう)の皇子・高望王(たかもちおう)が平姓を名乗ったのを『桓武平氏』と呼ぶ。
高望王の子・国香(くにか)、孫・貞盛(さだもり)・将門(まさかど)のころには東国に土着し勢力を張っていた。しかし、平将門の乱、平忠常の乱以後東国は源氏の地盤となり、貞盛の子・維衡(これひら)の時に伊勢・伊賀を根拠地とするようになった。
寛弘3(1006)年、維衡は伊勢守に任ぜられている。維衡は一門の力を背景に伊勢国に勢力を広げ、これが伊勢平氏の祖となる。伊勢平氏は海に精通して西国の国司を歴任。維衡の曾孫・正盛(まさもり)は永長2(1097)年、白河院の娘・媞子(ていし)内親王の菩提所である六条院御堂(ろくじょういんみどう)に伊賀国鞆田村・山田村を寄進し、鞆田荘(ともだしょう)として立荘したことわ契機に院権力と結びついた。正盛は院近臣の受領(ずりょう)のもとで、各国の検非違所(けびいしょ)や厩別当(うまやべっとう)などの武力にかかわる役割を果たし、みずからも各国の受領を歴任するに至った。伊勢平氏は北面の武士として、院のもっとも頼りになる武力となった。
大河ドラマ公式サイト
⇒NHK大河ドラマ第51作『平清盛(たいらのきよもり)』
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