2012年01月24日

第4回 殿上の闇討ち

第4回 殿上の闇討ち あらすじ 大河ドラマ『平清盛』
【第4回 殿上の闇討ち あらすじ】
大河ドラマ『平清盛』2012年1月29日 NHK総合20:00〜

平氏に大きな知らせが舞い込んだ。朝廷に忠誠を尽くしてきた忠盛(中井貴一)の功績が認められ、内裏の清涼殿に上がる資格を持つ"殿上人"に武士として初めてなったという。平氏一門は、その知らせに舞い上がる。佐藤義清(のりきよ、藤木直人)と共に北面の武士として勤める清盛(松山ケンイチ)も、父の出世が少しうれしい。しかし、貴族の中には忠盛のように武士が出世することが面白くない者が多かった。その一人、藤原摂関家の忠実(國村隼)は、配下の武士である源為義(小日向文世)をそそのかし一計を案じる。一方、清盛と義清は鳥羽院御所で流鏑馬(やぶさめ)の稽古をする。


佐藤義清(さとうのりきよ)、西行(さいぎょう)
元永元(1118)年〜文治6(1190)年
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、僧侶、歌人。
保延元(1135)年、18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ。保延3(1137)年、鳥羽院の北面武士として奉仕していたことが記録に残る。保延6(1140)年、23歳で出家して円位を名のり、後に西行とも称した。
出家した動機は、友人の急死にあって無常を感じたという説と失恋説もあり。失恋相手は西行出家の時期以前のことだとすれば、白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)であると考えられる。


藤原忠実(ふじわらのただざね)
承暦2(1078)年〜応保2(1162)年
平安時代後期の公卿。准三宮、従一位・摂政・関白・太政大臣。
藤原道長を先祖にもつ。藤原師通の長男。康和元(1099)年、父・師通の急死。当時22歳の忠実は権大納言(ごんだいなごん)で大臣にもなっておらず、摂政になるものの関白は地位は空席となる。栄華を極めた摂関家は若輩の氏長者(うじちょうじゃ)のもと、危機的な立場に追い込まれた。


流鏑馬(やぶさめ)
疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式で、馬上における実戦的弓術の一つとして平安時代から存在した。


平氏略図
 
    

 

平忠盛(たいらのただもり)
清盛の父 永長元年(1096)〜仁平3年(1153)
白河、鳥羽両天皇に目をかけられ、伊勢平氏の人間として初めて昇殿を許された。諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事した。


武士の成長は、11世紀後半に白河天皇が武士の源義家(みなもとよしいえ)と平正盛(たいらのまさもり)を院殿上人(いんのてんじょうびと)になしたことに始まる。武士を登用して身辺を固めた結果、武士が京都の警備や地方の治安の維持に活躍し頭角を現す。
平忠盛は院に奉仕して日宋貿易や受領(ずりょう)の富を得る。天承2(1132)年、鳥羽上皇勅願の観音堂である得長寿院(とくちゅうじゅいん)造営の落慶供養に際して、千体観音を寄進する。その功績により内昇殿(ないしょうでん)を許可された。

内昇殿(ないしょうでん)とは、天皇の居所であり、清涼殿(せいりょうでん)の殿上の間の上に上がることが許されることで、貴族にとってはまことに名誉なことであった。まして、武士である忠盛がこれを許されるのは破格の待遇である。

殿上の闇討ち
『平家物語』に五節(ごせち)の宴で起きた殿上の闇討ち事件について記載されている。
五節の宴とは、11月の豊明(とよのあかり)の節会(せちえ)での宴のことで、その年に蔵人(くろうど)や殿上人になった人をもてなす、現代風にいえば新入生歓迎会。
この五節の宴で、忠盛に反感をもつ貴族たちが闇討ちをしようとたくらんだ。それを知った忠盛は、懐に忍ばせた刀を抜き打ち襲撃者の度肝を抜く。後日、貴族たちは忠盛が宮中に刀を持参したことを鳥羽院に告げるが、それは木刀に銀箔を張っただけのものだったため、上皇は忠盛の機転を大いにほめた。


源氏略図
 


源為義(みなもとのためよし)
頼朝の祖父 永長元年(1096)〜保元元年(1156)
白河法皇・鳥羽上皇に仕える検非違使(けびいし)だったが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の為朝の乱行により解官となる。保元の乱で敗北し、長男の義朝の手で処刑される。


天皇家略図
  (72)



   
71代 後三条天皇
藤原氏を外戚としない171年ぶりの天皇
白河院政
1086〜1129年
北面の武士を設置し、平正盛を登用。強大な権力と財力を誇った
鳥羽院政
1129〜1156年
平正盛の子・忠盛を登用する。崇徳天皇を忌避し、保元の乱の原因をつくった。
後白河院政
1158〜1192年
平氏政権転覆を企て、1179年に平清盛によって幽閉され、2年間院政を停止した。
(73)



 



(74)






(77)




(75)



(76)



鳥羽天皇 
第74代天皇 康和5(1103)年〜保元元(1156)年
諱 宗仁(むねひと)

堀河天皇の第一皇子である宗仁親王は、誕生後すぐに母・苡子(いし)が没したため、祖父の白河法皇に引き取られ育った。その後、父・堀河天皇の崩御により5歳で即位。幼少だったため白河法皇の院政はさらに強固なものとなる。
15歳になると、白河法皇の意向により、法皇の養女である藤原璋子(ふじわらのしょうし、待賢門院)が入内、翌年中宮となった。璋子は法王の養女になっていたが、法皇と関係ができており、その後も関係は続いたと伝えられる。璋子はまもなく顕仁親王(のちの崇徳天皇)を生んだが、これは法皇の子であるといわれ、天皇は顕仁親王を冷遇した。しかし、法皇は顕仁親王の速やかな即位を望み、天皇に譲位を迫った。21歳の天皇はいわれるままに位を譲った。大治4(1129)年、法皇が崩じると鳥羽上皇は表舞台に登場し、院政を開始する。

白河院の跡を継承した鳥羽院は、白河院とは違う新たな王権の方向を模索した。モニュメントで飾った白河王権に対して、コレクションで王権を飾ることに意を注いだ。そのひとつが鳥羽殿を整備してその一角に勝光明院(しょうこうみょういん)を建て、宝蔵(ほうぞう)を設け列島内外からのコレクションを収めた。

白河法皇からにらまれて宇治にこもっていた藤原忠実を呼び戻し、その子・頼長(よりなが)を重用した。忠実は保安元(1120)年に白河法皇が熊野に参詣している間に娘の泰子を鳥羽天皇に入内させ、長承3(1134)年、泰子は女御から皇后になった。これが白河法皇を怒らせ、忠実の関白を停めてしまった。

璋子、泰子のほかに権中納言藤原長実の娘・得子(なりこ、美福門院)を女御として溺愛するようになり、得子が体仁親王(なりひと)を生むと、上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、わずか3歳の体仁親王を皇位につけた(近衛天皇)。

崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇の三代28年に渡り実権を掌握。康治元(1142)年には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。 皇后美福門院に動かされて崇徳上皇を疎んじ、鳥羽法皇の崩御の直後に保元の乱が勃発する原因を作った。


平清盛紀行  





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2012年01月16日

第3回 源平の御曹司

第3回 源平の御曹司 あらすじ 大河ドラマ『平清盛』
【第3回 源平の御曹司 あらすじ】
大河ドラマ『平清盛』2012年1月22日 NHK総合20:00〜

平清盛(松山ケンイチ)は "船の警護役"を自称して瀬戸内海で海族と戦い、取り返した食料を盗まれた漁民に返すという無頼の日々を送っていた。ところがある日、清盛は賊と間違われ捕えられ、京に連れ戻されてしまう。再会した父の忠盛(中井貴一)は清盛を『北面の武士』という院の警護役に就かせようとする。だが清盛はあくまで一人で面白い人生を歩むと息巻く。
そんな折、清盛を一人の若武者が呼び止める。その若武者の名は源義朝(玉木宏)。父の宿敵である為義(小日向文世)の子だった。義朝は、源氏と平氏のどちらが上か競べ馬(くらべうま)で勝負いろと清盛に挑む。

※競べ馬(くらべうま)
古くからの乗馬競技。2頭または数頭で、一定の距離を競走して勝敗を争う。奈良・平安時代には宮中儀式の一つともされた。


平氏略図
 
    

 

北面の武士(ほくめんのぶし)
11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。

平正盛(たいらのまさもり)率いる伊勢平氏は、伊勢・伊賀を拠点として成長し、永長2(1097)年、白河院の娘・媞子内親王(ていし)内親王の菩提所である六条院御堂(ろくじょういんみどう)に伊賀国鞆田村、山田村を寄進し、鞆田荘として立荘したことを契機に院権力と結びついた。正盛は院近臣の受領(ずりょう)のもとで、各国の検非違所(けびいしょ)や厩別当(うまやべっとう)などの武力にかかる役割を果たし、みずからも各国の受領を歴任するに至った。伊勢平氏は北面の武士として、院のもっとも頼りになる武力となった。

清和源氏は摂関家の従者として発展したが、源義家(みなもとよしいえ)の嫡男・義親(よしちか)が対馬守在任中に任地で人民を殺し、公物(くもつ)を押し取ったとして糾弾されるなど、中央政権とは折り合いがよくなかった。結局、義親は平正盛に追討された。

平正盛は受領としての諸国経営、荘園の寄進など、武力の行使だけでなく、院政を支える条件をパランスよくこなしたが、源氏は貴族社会にあって粗暴、逸脱とみられる行為が多く、低迷を余儀なくされた。



平忠盛(たいらのただもり)
清盛の父 永長元年(1096)〜仁平3年(1153)
白河、鳥羽両天皇に目をかけられ、伊勢平氏の人間として初めて昇殿を許された。諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事した。


源氏略図
 


源義朝(みなもとのよしとも)
頼朝の父 保安4(112)年〜平治2(1160)
平清盛と共に保元の乱に勝利したが、平治の乱では敵対。敗走後、謀殺された。


源為義(みなもとのためよし)
頼朝の祖父 永長元年(1096)〜保元元年(1156)
白河法皇・鳥羽上皇に仕える検非違使(けびいし)だったが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の為朝の乱行により解官となる。保元の乱で敗北し、長男の義朝の手で処刑される。


天皇家略図
(71)




   
71代 後三条天皇
藤原氏を外戚としない171年ぶりの天皇
白河院政
1086〜1129年
北面の武士を設置し、平正盛を登用。強大な権力と財力を誇った
鳥羽院政
1129〜1156年
平正盛の子・忠盛を登用する。崇徳天皇を忌避し、保元の乱の原因をつくった。
後白河院政
1158〜1192年
平氏政権転覆を企て、1179年に平清盛によって幽閉され、2年間院政を停止した。
  (72)



(73)



 



(74)






(77)




(75)



(76)



院政
『院政を敷く』という言葉は、会社や組織などで現職を引退した実力者が引退後も実権を握っている状態を指す。もともとは、天皇が譲位して『上皇(じょうこう)』となり、また上皇が出家して『法皇(ほうおう)』となって、天皇に代わり国を統治していた政治形態のことである。

院政の礎を築いたのは後三条天皇である。後三条天皇は藤原氏を外戚としなかったため、親政を開始。在位4年余りで位を退き、貞仁親王(白河天皇)に譲位した。その翌年崩御。

白河天皇は14年間在位した後に幼少の堀河天皇に譲位し、自ら上皇となって院政を開始する。白河法皇は堀河天皇が成人してからも政権を返すことなく、孫の鳥羽天皇、さらにその子の崇徳天皇と3代、43年間に渡って院政を行った。

白河法皇、大治4(1129)年7月7日崩御。77歳であった。法皇の死後は、鳥羽上皇が院政を実施し専制をふるった。


白河天皇(しらかわてんのう)
第72代天皇 天喜元年(1053)〜大治4年(1129)
子・堀河天皇、孫・鳥羽天皇、ひ孫・崇徳天皇の3代に渡り院政を敷いた。

ひ孫・崇徳天皇は実子説あり
崇徳天皇の母である待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)は、幼いころより白河院の手もとに置かれ、溺愛されて育った。永久5(1117)年、白河院の猶子として鳥羽天皇のもとに入内(じゅだい)するが、その後も白河院と『密通』しており、公然の秘密となっていたという。崇徳天皇は白河院の子だとうわさされた。ただ、この時代の後宮の女性たちは、親子・兄弟などの二代の天皇に仕えたり、複数の男性と関係をもつことは、中世を通じてめずらしいことではない。


平清盛紀行  

伊勢平氏発祥伝説地
津市産品1437−1

桓武平氏系譜
桓武天皇の第三皇子である葛原親王(かずらわらしんのう)の皇子・高望王(たかもちおう)が平姓を名乗ったのを『桓武平氏』と呼ぶ。
高望王の子・国香(くにか)、孫・貞盛(さだもり)・将門(まさかど)のころには東国に土着し勢力を張っていた。しかし、平将門の乱、平忠常の乱以後東国は源氏の地盤となり、貞盛の子・維衡(これひら)の時に伊勢・伊賀を根拠地とするようになった。
寛弘3(1006)年、維衡は伊勢守に任ぜられている。維衡は一門の力を背景に伊勢国に勢力を広げ、これが伊勢平氏の祖となる。伊勢平氏は海に精通して西国の国司を歴任。維衡の曾孫・正盛(まさもり)は永長2(1097)年、白河院の娘・媞子(ていし)内親王の菩提所である六条院御堂(ろくじょういんみどう)に伊賀国鞆田村・山田村を寄進し、鞆田荘(ともだしょう)として立荘したことわ契機に院権力と結びついた。正盛は院近臣の受領(ずりょう)のもとで、各国の検非違所(けびいしょ)や厩別当(うまやべっとう)などの武力にかかわる役割を果たし、みずからも各国の受領を歴任するに至った。伊勢平氏は北面の武士として、院のもっとも頼りになる武力となった。


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2012年01月09日

第2回 無頼の高平太

第2回 無頼の高平太 あらすじ 大河ドラマ『平清盛』
【第2回 無頼の高平太 あらすじ】
大河ドラマ『平清盛』2012年1月15日 NHK総合20:00〜

青年となった平氏の嫡男・清盛(松山ケンイチ)は、2人の父を持つという数奇な定めを知らされた。何者でもない自分にいら立つ清盛は、賭場をうろつく。人々は平氏の嫡男を、《無頼の高平太》と呼ぶようになっていた。父の忠盛(中井貴一)は、それでも血のつながらない清盛を嫡男として育てた。しかし、忠盛の弟で清盛の叔父に当たる忠正(豊原功補)とは、清盛のことになると対立していた。そんな折、白河法皇(伊東四郎)が出した『殺生禁断令』に背いたという理由で、清盛が慕っている瀬戸内海の漁師の漁師の鱸丸(上川隆也、のちの平盛国)の父・滝次(河原崎建三)が白河に捕らえられてしまう。


高平太とは清盛の青年時代のあだ名

高=高下駄
平=平家
太=太郎(嫡男)


この当時の上級貴族は上等な靴を履いていましたが、清盛は貴族といっても中級貴族で靴を履かず(履けず)、下駄を履いていたので、このように呼ばれていました。当時は上級と中級では身分の差が激しく、上級貴族への出世の道は閉ざされていました。


平氏略図
 
    
平忠盛は鳥羽上皇の寵臣として仕えた。武士としての実力を存分に発揮したのが西国の海賊追捕である。その頃、清盛は10代の若者で、清盛が父に同行したかどうかは史実として確認されていない。

 


平忠盛(たいらのただもり)
清盛の父 永長元年(1096)〜仁平3年(1153)
白河、鳥羽両天皇に目をかけられ、伊勢平氏の人間として初めて昇殿を許された。諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事した。


平忠正(たいらのただまさ)
清盛の叔父 生年不詳〜保元元年(1156)
父の正盛と同じく白河法皇に仕えるが、鳥羽上皇により勘当される。以後は官職に就くことも院の軍事動員を受けることもなく、摂関家の家人として活動することになる。
保元の乱では崇徳上皇方につき敗北、伊勢に逃亡する。しばらくの潜伏の後、甥の清盛を頼って子の長盛、忠綱、正綱、通正を伴い投降したが、六波羅で清盛の手によって処刑された。


平盛国(たいらのもりくに)
永久元年(1113)〜文治2年(1186)
清盛の側近として仕え、保元の乱、平治の乱では、一門衆の要となる侍大将として嫡男・盛俊と共に戦い、多くの功績を挙げた。 清盛からの信頼は絶大で、清盛は盛国の邸宅で死去したと伝えられる。


天皇家略図
(71)




   
71代 後三条天皇
藤原氏を外戚としない171年ぶりの天皇
白河院政
1086〜1129年
北面の武士を設置し、平正盛を登用。強大な権力と財力を誇った
鳥羽院政
1129〜1156年
平正盛の子・忠盛を登用する。崇徳天皇を忌避し、保元の乱の原因をつくった。
後白河院政
1158〜1192年
平氏政権転覆を企て、1179年に平清盛によって幽閉され、2年間院政を停止した。
  (72)



(73)



 



(74)






(77)




(75)



(76)





白河天皇(しらかわてんのう)
第72代天皇 天喜元年(1053)〜大治4年(1129)
子・堀河天皇、孫・鳥羽天皇、ひ孫・崇徳天皇の3代に渡り院政を敷いた。
※ひ孫・崇徳天皇は実子説あり


平清盛紀行  石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)

石清水八幡宮・公式サイト
京都府八幡市八幡高坊30

貞観元年(859年)、空海の弟子・南都大安寺の僧・行教が宇佐神宮に参詣した折に『われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん』との神託を受け、翌年、清和天皇の命により社殿を建立したのがはじまりとされる。
京都の北東にある比叡山延暦寺と対峙して京都の南西の裏鬼門を守護する神社で皇室・朝廷より篤い信仰を受けた。
また、源氏をはじめ、足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏など、多くの清和源氏が氏神として信仰したことから武神・弓矢の神・必勝の神として崇敬された。
また、伊勢平氏もこの社を重んじており、平正盛が造営の功を上げたことや平清盛ら伊勢平氏の主だった人々が八幡宮の臨時祭で舞人を演じたとする記録が残されている。清盛一行の装束が美しくぜいたくで人々を驚かせたと伝えられています。


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NHK大河ドラマ第51作『平清盛(たいらのきよもり)』

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桓武平氏系譜
清和源氏系譜
院政時の天皇家の系図
平清盛年譜
平清盛関連本

日本の歴史まとめ
平安時代(へいあんじだい)


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