第21回 保元の乱 あらすじ 大河ドラマ『平清盛』
【第21回 保元の乱 あらすじ】
大河ドラマ『平清盛』2012年5月27日 NHK総合20:00〜
保元元(1156)年7月10日深夜、上皇方と天皇方では軍議が行われていた。天皇方の源義朝(玉木宏)、上皇方の源為朝(橋本さとし)は夜襲が最上策とそれぞれ上申。夜襲は恥ずべき卑劣な策とする上皇方の藤原頼長(山本耕史)に対し、天皇方の信西(阿部サダヲ)は戦に勝つことだけを目的とし、積極的に義朝の案を取り入れる。翌11日の寅の刻、ついに保元の乱の戦いの火ぶたが切られる。平清盛(松山ケンイチ)は「死ぬ覚悟で戦え」と一門を引き締め、白河殿に立てこもる崇徳上皇(井浦新)たちを攻撃。不意打ちを受けた上皇方は、藤原頼長(山本耕史)を始め動揺するものの、源為朝(橋本さとし)の防戦により、戦況はこう着状態に入る。為朝を攻めあぐねる清盛は、作戦を立て直すものの、敵となった叔父・忠正(豊原功補)が行く手に立ちはだかる。一方、義朝も戦場で父・為義(小日向文世)と対面。身内と敵対する痛みをかかえつつも、清盛も義朝も来るべき武士の世のために太刀を振るうのだった。
++++++++++++

保元の乱・平治の乱

待賢門院璋子―保元の乱前夜
貴族社会から武士社会へ
保元の乱(1156年) 天皇と上皇の戦い
|
|
天皇側
勝ち組 |
|
VS |
|
上皇側
負け組 |
|
| 天皇家 |
|
後白河天皇 |
|
崇徳上皇 |
⇒ 流刑 |
| 摂関家 |
|
藤原忠通(兄) |
|
藤原頼長(弟) |
⇒ 戦傷死 |
| 平氏 |
|
平清盛(おい) |
|
平忠正(おじ) |
⇒ 斬首 |
| 源氏 |
|
源義朝(子) |
|
源為義(父) |
⇒ 斬首 |
長年にわたって院政を行ってきた鳥羽院が亡くなった直後、政治の実権と掌握をめざして争われた保元の乱。
鳥羽院の後継者である後白河天皇を乳母夫(めのと)として育ててきた信西(しんぜい)は、摂関家の藤原忠通とはかって、後白河天皇の即位を実現させたが、その勢いを借りて鳥羽院の遺志を背景に源氏の義朝や平氏の清盛らの武士を集め、崇徳上皇に連なる反対勢力を排除したのである。
後白河天皇方は有力京武士をはじめ、検非違使、衛府、諸国司に動員をかけ、最大限の態勢を敷いた。鳥羽院の崩御前から準備を進めていた天皇方に比べ、崇徳上皇・頼長方はずいぶん出遅れ、軍勢を招集したものの、源為義、その子・頼賢、為朝、源頼憲、平忠正ら、崇徳上皇や摂関家に仕えていた武士ばかりで、天皇方にくらべて明らかに見劣りする陣営であった。
保元元(1156)年7月11日早朝、平清盛、源義朝らの率いる600余騎が、崇徳上皇方の拠点である白河殿を急襲した。崇徳上皇方も善戦したが、天皇方とは戦力があきらかに違い、まもなく上皇方の敗北が決し、わずか数時間で幕を下ろした。
重症を負った頼長は奈良まで落ち延びたがまもなく死亡。崇徳上皇は捕らえられ、讃岐国に配流された。上皇は8年後にその地で崩御する。
源為義以下の崇徳上皇方の武士たちは処刑されることになり、源為義は子の義朝が、平忠正をおいの清盛が、それぞれ一族の者に斬首を行わせる厳しい措置がとられた。
保元の乱は戦闘していはたいした規模ではなかったが、中央政界に導入された武士が、はじめて政争の具として用いられ、武力による問題解決という新しい方法が用いられた。
| 年表 |
| 1154 |
近
衛
天
皇 |
鳥
羽
法
皇 |
延暦寺僧徒、林大夫光家の赦免に抗議し強訴 |
| 源為朝の乱行により、父・為義、解官 |
| 1155 |
後
白
河
天
皇 |
諸国飢饉 |
| 源義平、武蔵国比企郡大蔵館で叔父・源義賢と合戦し殺害 |
| 源義朝、院宣により弟・源頼賢を討つ |
| 後白河天皇即位 |
| 1156 |
鳥羽法皇没 |
|
保元の乱起こる |
|
新立荘園停止(新制7ヵ条) |
|
記録荘園券契所を復す |
| 平氏略図 |
|
|
|
|
|
| |
|
|
|
|
|
|
|
忠
盛 |
|
|
| ┌ |
− |
− |
− |
− |
┤ |
|
|
忠
度 |
頼
盛 |
教
盛 |
経
盛 |
家
盛 |
清
盛 |
= |
時
子 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
平 時子(たいらのときこ)
誕生 大治元年(1126年)
死没 文治元年3月24日(1185年4月25日)
平清盛の正室(継室)。出家後は二位尼(にいのあま)。
時子は清盛と同じ桓武平氏ではあるが、高棟王を祖とする公家平氏の出身。
父は兵部権大輔平時信、母は白河法皇の第三皇女・二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、召使い)。
同母弟に後年『平関白』と呼ばれた時忠、異母妹に後白河法皇の寵姫となり高倉天皇を生む滋子(建春門院)がいる。
清盛との間に宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡ら多くの子をもうける。
清盛の陰で糸を引き、平家一門の栄華を支えた。高倉天皇の乳母になり、最後まで清盛を失った一門の柱であり続けた。
最期は孫の安徳天皇を胸に抱き、三種の神器と共に壇の浦の底へと沈んでいった。
平滋子
誕生 康治元年(1142年)
死没 安元2年7月8日(1176年8月14日
院号は建春門院(けんしゅんもんいん)
後白河天皇の妃、高倉天皇の母。時時子の妹。
類まれな美貌の持ち主だったと言われ、後白河天皇の寵愛は他の妃とは比較にならなかった。
滋子は35歳の若さでこの世を去った。 滋子の死は政情に大きな波紋を呼び起こした。もともと後白河院と平清盛は高倉天皇の擁立という点で利害が一致していただけで、平氏一門と院近臣の間には官位の昇進や知行国・荘園の獲得などを巡り、鋭い対立関係が存在した。その衝突を抑止して調整役を果たしていたのが、滋子と堂上平氏だった。高倉天皇即位によって成立した後白河院政は、武門平氏・堂上平氏・院近臣という互いに利害を異にする各勢力の連合政権といえる形態をとっていたため、滋子の死により、今まで隠されていた対立が一気に表面化することになった。滋子の死からわずか1年後に鹿ケ谷の陰謀が起こり、後白河院と清盛の提携は崩壊する。滋子の死は一つの時代の終わりであると同時に、平氏滅亡への序曲ともなった。
源義朝(みなもとのよしとも)
頼朝の父 保安4(112)年〜平治2(1160)
平清盛と共に保元の乱に勝利したが、平治の乱では敵対。敗走後、謀殺された。
義朝は少年期に東国(関東地方)に下向したと見られる。上総介氏等の庇護を受け同地で成長した。東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、相馬御厨・大庭御厨などの支配権をめぐって在地豪族間の争いに介入し、その結果、三浦義明・大庭景義ら有力な在地豪族を傘下に収める。
長男義平の母は三浦氏ともされ、相模の豪族である波多野氏の娘との間に次男朝長をもうけるなど、在地豪族と婚姻関係を結んだ。
河内源氏の主要基盤が東国(関東地方)となったのはこの義朝の代であり、特に高祖父の源頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、相模国一帯に強い基盤を持った。 義朝は20代前半で南関東の武士団を統率する地位を確立し、その活躍が都にも知られるようになった事で、中央進出への足掛かりを掴んだ。
| 天皇家略図 |
|
|
|
(72)
白
河
天
皇 |
|
|
|
71代 後三条天皇
藤原氏を外戚としない171年ぶりの天皇 |
白河院政
1086〜1129年
北面の武士を設置し、平正盛を登用。強大な権力と財力を誇った |
鳥羽院政
1129〜1156年
平正盛の子・忠盛を登用する。崇徳天皇を忌避し、保元の乱の原因をつくった。 |
後白河院政
1158〜1192年
平氏政権転覆を企て、1179年に平清盛によって幽閉され、2年間院政を停止した。 |
|
|
|
|
| |
|
|
|
|
|
(73)
堀
河
天
皇 |
|
|
|
|
|
| |
|
|
|
待
賢
門
院 |
= |
(74)
鳥
羽
天
皇 |
= |
美
福
門
院 |
|
┌ |
┤ |
|
| |
|
|
(77)
後
白
河
天
皇 |
(75)
崇
徳
天
皇 |
|
(76)
近
衛
天
皇 |
|
|
第75代天皇 崇徳天皇(すとくてんのう)
生誕 元永2年5月28日(1119年7月7日)
崩御 長寛2年8月26日(1164年9月14日)
在位 1123年 - 1142年
諱 顕仁(あきひと)
鳥羽天皇の第一子・顕仁親王は、実は白河法皇の子であると噂された。5歳で父・鳥羽天皇の譲位により即位(崇徳天皇)したが、これは祖父・白河法皇の意向によるもの。崇徳天皇は白河法皇の庇護下にあるうちは順調であったが、法王が崩御すると状況は一変した。
鳥羽上皇が美福門院得子が産んだ体仁親王を皇位につけるため、崇徳天皇に退位を迫った。崇徳天皇はしぶしぶ譲位して上皇になった。このとき、近衛天皇3歳、崇徳上皇23歳。上皇といっても実権は鳥羽法皇が握っており、譲位の際の宣命(みょう)には『皇太子』ではなく『皇太弟』と記され、崇徳天皇は新天皇(近衛天皇)の兄とされていた。これでは将来、父権に基づく院政をしくことができない。崇徳上皇の院政への道は閉ざされ、保元の乱の遠因をつくることになった。
ところが近衛天皇は病弱で皇子女をもうけないまま17歳で亡くなった。このため、崇徳上皇は再度自分が皇位につくか、わが子の重仁親王の即位に望みかけた。しかし、近衛天皇の母である美福門院得子が、『近衛がなくなったのは崇徳の呪詛のせいだ』と鳥羽法皇に訴えたため、鳥羽法皇は待賢門院璋子との間に産まれた雅仁親王を皇位につけた。
こうして完全に望みを断たれた崇徳上皇はクーデーの挙に出た。保元元(1156)年、鳥羽法皇の崩御を機に、平忠正や源為義ら武士を率いて権力奪回を試みた。これが保元の乱である。
しかし、鳥羽法皇は生前、平清盛、源為朝ら有力な武士集団に後白河天皇を守るように命じており、彼らの奇襲攻撃によって崇徳上皇側はあえなく敗退した。その結果、崇徳上皇は讃岐(香川)に流され、その後は『讃岐院』と呼ばれた。
讃岐では仏教に帰依し、戦死者の供養と反省の意を込めて熱心に写経した。そしてこれを寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河天皇が『呪詛が込められているのではないか』と許さず、突き返されてしまった。
怒った讃岐院は、返された写本に舌を噛み切った血で『大魔王となって日本国を転覆させよう』という誓いを書き、海に沈めた。それ以来、恨みをのんで爪や髪を伸ばし続け、悪鬼のような姿で亡くなった。享年46歳であった。
第76代天皇 近衛天皇(このえてんのう)
誕生 保延5年5月18日(1139年6月16日)
崩御 久寿2年7月23日(1155年8月22日)
在位 1142年 - 1155年
諱 体仁(なりひと)
鳥羽天皇の第九皇子である体仁親王は生後3ヶ月で崇徳天皇の皇太弟ななり、わずか3歳で即位(近衛天皇)した。
近衛天皇は生母・藤原得子(美福門院)が身分の劣る院近臣家の出身ということから、崇徳天皇の中宮・聖子(せいし、藤原忠通の娘)の養子となり皇太子となった。
鳥羽上皇に溺愛された近衛天皇は、17歳で早世するまで、病と称して御帳(みちょう、貴人の御座所の帳)から出ることはほとんどなかった。
12歳の正月、当時左大臣だった藤原頼長の養女・多子が入内して皇后となり、4月には頼長の兄・忠通も養女・呈子を入内されて中宮とした。いずれも将来、外祖父として政治を左右しようとする目論見である。
忠通、頼長は兄弟といっても異母兄弟であり、年齢も24歳もちがい反目する仲だった。幼い天皇は二人の確執の間で政治をとることもなく、眼病のために17歳の若さで崩御した。
第77代天皇 後白河天皇(ごしらかわてんのう)
誕生 大治2年9月11日(1127年10月18日)
崩御 建久3年3月13日(1192年4月26日)
在位 1155年 - 1158年9月5日)
諱 雅仁(まさひと)
鳥羽天皇の第四皇子である雅仁親王が、近衛天皇の崩御により29歳の若さで皇位を継いだ(後白河天皇)。後白河天皇の息子の守仁親王が美福門院の養子となっており、守仁親王が即位するまでの中継ぎとして父が践祚するという筋書きで後白河天皇が誕生した。
『学生抜群』とうたわれ、鳥羽院の信頼を得て有力政治家として売り出していた藤原信西(しんぜい)の妻を乳母にしていたことも、後白河擁立の要因のひとつといわれている。もともと後白河天皇は、自他ともに認める即位の望みない皇子で、気楽な立場で今様に明け暮れていた。
この即位は崇徳上皇へのけん制と、二条天皇への中継ぎでしかなった。ところが後白河天皇が即位のあとは源平の勢力をたくみにあやつり、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の五代にわてった院政を続け、たぐいなれな政治力を発揮する。
即位の翌年、保元元(1156)年、保元の乱が起こった。後白河天皇の即位に不満を抱く崇徳上皇が、左大臣藤原頼長と組んでクーデターを起こしたのである。しかし、後白河天皇と関白藤原忠通は平清盛、源義朝ら武士勢力によってこれを破り、崇徳上皇を讃岐に流した。そして功績のあった藤原通憲(信西)を重用して荘園整理を行なうなど、新しい制度のもとで権力の強化をはかった。
即位4年目、後白河天皇は早々と皇子の守仁親王に譲位し、院政を開始する。そこにはさまざまな勢力が拮抗し、後白河上皇が重用した信西には藤原信頼や二条天皇の側近である藤原経宗、惟方が反目しており、これに味方する源義朝と平清盛との対立も激化していた。この対立が爆発したのが平治元(1159)年の平治の乱で、信頼・義朝は信西を攻めて自害されたが、結局は清盛に敗れて平家の全盛時代を招くことになった。
後白河上皇は清盛の力を利用して権勢を振るうが、平家一門も上皇の権威を利用して公家や殿上人になり勢力を拡大していった。
二条、六条天皇の時代は、まだ後白河上皇の権力も万全ではなかった。しかし、清盛の武力を背景に二条、六条を退位させ、滋子(清盛の妻の妹)との間に生まれた憲仁親王を皇位につけ、反対派を押さえ込んだ。こうして上皇は政治の実権を掌握した。
仁安2(1167)年、清盛は武士として初めて太政大臣となり、翌年出家。後白河法皇も翌年出家し法皇となった。しかし、親密だった法皇と平家との間にも、互いの勢力が拮抗することによって軋轢が生じてきた。
治承元(1177)年、鹿ケ谷で行なわれた後白河法皇の近臣による平家打倒の密議が露見すると、平家との間は極端に悪化した。そして、清盛の子・重盛が亡くなると、法皇はその所領を没収した。起こった清盛は数千の兵を率いて上洛し、法皇を鳥羽殿に幽閉した。そして法皇の院政をとめ、高倉天皇と娘・徳子の間に生まれた言仁親王を立て、高倉上皇には名目だけの院政を行なわせて実権を握った。平家による武家政権の成立である。
ところがこの年、高倉上皇との皇位争いに敗れた弟の以仁王が源頼政と平家打倒の郡を挙げた。これは失敗に終わったが、木曽の源義仲、伊豆の源頼朝などが挙兵、後白河法皇はこれを支援して平家と向かい合った。
養和元(1181)年、高倉天皇に続いて清盛が病死すると、平家の勢力は急激に衰え、幽閉されていた後白河法皇は院政を再開した。そして寿永2(1183)年、木曽義仲が叡山と連携して京都に攻め込むと、平家は安徳天皇を奉じて三種の神器とともに西へ落ち延びた。京へ戻った法皇は義仲と対立して捕らえられたが、頼朝が弟の範頼、義経を上洛させ義仲を討ち、法皇は平家追討の宣旨を下した。
壇ノ浦で平家が滅ぶと、今度は頼朝との間に確執が生まれ、後白河法皇は義経に頼朝追伐の院宣を下した。しかし義経が敗れ頼朝に抗議されると、逆に頼朝に義経追討の院宣を下した。こうして、法皇の下で頼朝が御家人を率いて、日本国総追捕使として国家の軍事警察を担当する体制が確立した。
建久3(1192)年、66歳で崩御。
熱田神宮(あつたじんぐう)
愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1
熱田神宮は熱田大神(あつたのおおかみ)を主祭神とし、相殿神に天照大神(あまてらすおおみかみ)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、宮簀媛命(みやすひめのみこと)、建稲種命(たけいなだねのみこと)を祀る。
そして、主祭神である熱田大神の御神体は、天皇の位を象徴する『三種の神器』一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)とされる。
※剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも熱田神宮に保管されたままとも言われている。
誓願寺(せいがんじ)
熱田神宮西門向い側
頼朝が生まれたという伝説がある誓願寺。
源頼朝出生地 この地は平安時代末期、熱田大宮司藤原氏の別邸があったところで、藤原季範の娘由良御前は、源義朝の正室となり、身ごもって久安3(1147)年熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれる。
享禄2(1529)年別邸跡に、妙光尼日秀、世にいう善光上人により誓願寺が建てられた。妙光山と号し、西山浄土宗の寺で、本尊は木造阿弥陀如来坐像である。
名古屋市教育委員会(現地案内板より)
大河ドラマ公式サイト
⇒NHK大河ドラマ第51作『平清盛(たいらのきよもり)』
平清盛関連記事
⇒NHK大河ドラマ第51作『平清盛(たいらのきよもり)』 主な登場人物
⇒桓武平氏系譜
⇒清和源氏系譜
⇒院政時の天皇家の系図
⇒平清盛年譜
⇒平清盛関連本
日本の歴史まとめ
⇒平安時代(へいあんじだい)